白河ま日記(仮)

あたまわるいぶんしょうかくよ

慈悲ぶかく慈愛あつきお方に慈悲を乞う

はじめに

このエントリーを書くきっかけとなったのは、石打の刑(「石打刑」とも書く)で殺された若いゲイカップルの事件を知ったことです。それまで、私は今でもその刑が行われているとは知りませんでした。
このむごい刑罰を捨て置けず、といって私にできることといえばこんなエントリーを書くぐらいしか思いつかなかったのでした。知らない人には知って欲しい、そして普段は忘れていてもいいから胸の奥に大事にとっておいて欲しいのです。そうすれば、いつか役に立つ時がくるかもしれませんから。(この世にはむごい話がいくらでもあるので、それらを常に意識していると気を病みます。)

◆大前提

私は特定の宗教に入信しておらず、これからも一生入信するつもりはありません。

◆前提

今回のエントリーを書くにあたって、ネットの情報以外に下記の書物も参照させていただきました。

参照したとはいえ、それぞれきちんと読破したわけでなく、(むしろ斜め読みさえもろくに出来ていないという大変申し訳ない状態なのですが、)私の読み違いや見落としなどあるかと存じますが、そこはご容赦ください。

イスラム教キリスト教、似ていたり違ったり

◆現代のイスラム教徒とキリスト教

現代のキリスト教徒と聞いて、皆さんはどんなイメージを浮かべるでしょうか? 例えば私はクリスマスイブのミサに集まる人々、日曜の礼拝、食事の前に祈る姿、ゴスペルなどでしょうか。
では、現代のイスラム教徒と聞いて、皆さんはどんなイメージを浮かべるでしょうか? 例えば私は10年ほど前に訪れた中国のウイグル自治区の人々を思い出します。ウイグルの民は主に回教徒、つまりイスラム教徒なのです。ぶどう畑で働く人々、ぶどう畑のなかにぽつぽつとある干しぶどうを作る建物、家畜を追う人々、夕涼みをする人々、メッカの方向に祈りを捧げる人々などなど、穏やかな風景が脳裏によみがえります。
どちらの信者たちも、基本的には平時は慎ましく平和に暮らしていると、私は思います。(そう思いたいからでもあります。)

モーセと十戒

コーランの中には、モーセやノアやアブラハム、イエスその人やマリヤ、大天使ガブリエルやミカエルなど、聖書でおなじみの名前がぞろぞろ出てきます。(注意:モハメットはキリスト教ユダヤ教に影響されてはいるようですが、模倣・まねっこというわけではありません。)
では、モーセの十戒はコーランの中にあるでしょうか? 私は読み方がまずいのか見つけることができませんでしたが、十戒に当たる律法は登場するようです。

神は言いたもうた、「モーセよ、わしは人々の中からおまえを選び、わしの伝言とわしのことばを託すことにした。わしの授けるものを受けとれ。そして感謝を知る者となれ」
われらは、いっさいのことについての戒めと、あらゆることについての詳しい説明とを板の上に書き記して言った、「これをしっかと受けとれ。その最善の道をとるよう、おまえの民に命ぜよ。
——コーラン、高壁の章144〜145 より——

この板の上に書き記されたことが、律法、すなわちモーセの十戒に相当するのではないかと思われます。
このあと民のところへ戻ったモーセが、子牛の偶像を崇拝する民を見てがっかりするところあたり、旧約聖書と似ています。

◆イエスと石打の刑

「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスを試して、訴える口実を得るためであった。(中略)イエスは身を起こして彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。(中略)これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起こして女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
——新約聖書ヨハネによる福音書、第八章 より——

参照:画家ロレンツォ・ロット作『キリストと姦淫の女』とその解説 http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/lotto_cristo.html
これに該当するような話は、コーランから見つけられませんでした。単なる見落としの可能性もありますが。モハメットその人が、死刑を受ける罪人に神の慈悲を言動で示したという逸話があれば、今どんなに救われる人々がいることでしょうか。

イスラム教徒全てが石打の刑に賛成というわけではない

◆そもそも「石打の刑」って?

「石打の刑とは、罪人の体の半分を地中に埋め、大勢の者が死ぬまで石を投げつける処刑法。」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090619-00000001-flix-moviより。
なお、上記リンクにある話が、はじめに私が書いた「このエントリーを書くきっかけ」になります。この出来事はイランでおこったのですが、どうやら他のイスラム国家、イスラム社会でも(全ての、ではないにせよ)行われているようなのです。と同時に、イランにも石打の刑に反対する人々がいたからこそ、イラン国外でとはいえ『The Stoning of Soraya M.』(stoning=石打の刑)という映画が作られたのです。他のイスラム社会にも石打の刑に反対する人々がいることでしょう。

◆日本は関係あるの?

死刑を免れるために日本に亡命しようとした同性愛者たちが、日本政府に難民として受け入れられず、なんとか他の国へ渡航した、という話を読んだことがあります。え?「ホモなんかのためにわざわざこんなん書いてるの?」ですって? 私もセクシャルマイノリティですから、人ごとじゃないんですよ。
それに、姦淫罪の場合は、強姦された被害者が石打の刑に処されるという、踏んだり蹴ったりというかそんな言葉じゃすまない残酷なことも行われているのです。これはとんでもないことですよ。極端な例ではこんな話 http://frihet.exblog.jp/10056537/ もあります。
世界は、世界中の国々は繋がっています。今すぐどうこうしてくれ!とは申しませんが、関係がないということはないと思うのです。どうか、世の中にはこんなに痛ましい、むごいこともあるのだ、と心の奥に覚えておいて下さるとありがたいです。