白河ま日記(仮)

あたまわるいぶんしょうかくよ

「我が心の悪魔よ、去れ。」

なんか恥ずかしいタイトルだけど、そのまんまにしとこう(書いたのは2009年03月26日)


数ヶ月前のことになるのですが。 ある女性がこんな内容のことを話すのを聞いてしまったのです。
「うちの娘は自分が女の子に生まれたことになんの支障も感じていないみたいで良かったわ。」
その女性と話し相手は、私が性別違和感を持っていることを知っているのでした。 そのときこう思ったのです。 子供というのは親が望む姿を演じるものだよ、 親が見ている姿が子供の全てではないのだよ、と。

昨日そのことをふと思い出してしまいました。 そのあと自分の心を探りました。 もし、彼女の娘さんが、実は性別違和感を感じているとしたら? そうなったとしたら? それを彼女が知って悩み苦しんだとしたら? 私は彼女に対し、「ざまあみろ」と思うのでしょうか。

とんでもない! なんととんでもないことか!! 確かに浮かんだ暗い思いを振り払いました。 それは誰のためにもなりません。

たとえば。 子供が誕生した時に、五体満足に生まれてくれば親は喜ぶものです。 それは体に障碍を持つ人を差別することになるのでしょうか? (差別になるかもしれませんが、よくわかりません。) 喜ぶのは偏見の裏返しかもしれません。 しかし偏見ばかりが理由でもないでしょう。 子供が苦しむことになる可能性の芽は一つでも少ない方が、親は嬉しいでしょう。 障碍を乗り越えたり、逆に味方につけたりすることで、かえって心豊かな人生を送る人々もいます。 だからといって、障碍がないことを喜んでいけないわけでもないでしょう。

偏見があるならそれを取り除いてもらえば良いのです。 偏見を持つが故の不幸にまみえることをあざ笑うよりも、その方が建設的です。

もしも彼女に性別違和感を持つ者への偏見があったとしても、私が心豊かに生きてみせれば、その偏見を薄めて弱めてもらえるかもしれません。 しっかりしなさい、私よ。 そも、彼女に偏見が無いことも考えられるのです。 しっかりしなさい、私よ。 ちゃんと生きないと。